宝島























  夕刻、雲が早い





  潮の引いた海水浴場

 赤岩からイマキラ岳を臨む









この旅行記は1991年の夏に行って来たものを(今頃)まとめたものです。

 さて皆さんは宝島と聞いて皆さんは何を想像するでしょうか?キャプテンク ックの登場する冒険小説でしょうか?それとも金銀財宝が埋まっている隠し島? 宝島という島が日本にあるのです。鹿児島県の南の海上に。

 宝島を含む十島村は屋久島と奄美大島の間に点在するトカラ列島10島から なっている。十島村の役場は鹿児島市内にある。島々を結ぶ定期航路は、鹿児島 から村営の「としま丸」が月に8回運行される。1カ月前に運行計画が決まるの で、十島村を旅するときには十島村船舶課(0992-22-2101)に問い合わせる必要が ある(時刻表には載っていない)。 鹿児島から南端の宝島までの所要時間は1 5時間。夜の10時に出航して、途中の島々に立ち寄って昼過ぎに宝島に着くと いうのがパターンのようだ。 運行は宝島折り返し便と奄美大島の名瀬まで行っ て折り返す便の2パターンがあるようだ。大阪からなら、名瀬まで飛行機で飛ん で、船というのが手っ取り早くて良いかもしれない。まぁはるばる来たぜ!とい う感じを味わうには鹿児島から船でしょうが。
 島の産業は、ほとんどが第1次産業、農業・漁業・畜産業である。農業は稲 とさつまいもが主で、イネに関しては2期作も可能である。
 トカラの文化は独特のものがある。悪石島ではボゼという仮面神がお盆の末 日に現れ悪魔払いをする。海流の関係か南方系の文化の香りがする。

計画段階
 大阪教育大学旅行研究会の先輩である桜石は、旅することに関しては、とに かく変人であった。旅行研究という一見ミーハーサークルっぽい名前に引かれ入 部してくる新入生をいきなり深みにはめるものだから、桜石に引っかかった新入 生はほとんど辞めていくのだった(新人つぶしと呼ばれていた)。まぁ私はそん な旅に対して徹底したこだわりを持つ桜石が大好きであるが。 その桜石が「ト カラじゃトカラじゃ、男ならトカラへ行こう、宝島や悪石島へ行こーよー」と言 い始めた。海は前年の春に小笠原で少々痛い目にあっているので、あまり乗り気 でなかったのだが、やたらと誘ってくるので、ほんじゃまぁ行くべぇということ になってしまった。さらに旅行研究会のティナさんと相方の河田さんが加わり、 トカラ探検隊が結成されるのであった。

 十島村の情報収集は全て桜石が行った。船の情報・島の様子、なかなか手に 入りにくいもののようだったが、何とかそろえて、何度も夜中に集まっては旅程 を立てた。 旅行の計画を立てる段階というのは実に楽しいもので、この十島村 のように情報が少ないとなると、ますますワクワクしてくるものがある。

第0日 8/12
 宝島へ行く前に関東方面へ旅行していた。関東から「銀河」で帰り、すぐさ ま大阪駅に預けていたトカラ旅行用のリュックサックを受け取り、新幹線の人と なる。博多から「ハイパー有明」で西鹿児島へ。
 鹿児島駅で桜石と合流。「としま丸」の出航する桟橋を確認した後、なぜか 近くの銭湯へ行く。再び鹿児島駅に戻り、長崎へ行っていたティナさん・河田さ んと合流。トカラ探検隊の4名がそろう。 出航まで天文館あたりで飲む。

 「としま丸」は、先に書いたように十島村の村営船である。南北に連なる7 つの有人島と鹿児島港・奄美大島名瀬港を結ぶ。この船一隻に十島村の物流がか かっている。この船がつぶれてしまうと荷物が運べないので、運行は慎重となり 、いきおい欠航や出航日時の変更も多くなる。 運賃は宝島までで2等室6420円 、一等室はその倍。2等室はお約束どおり舟底で雑魚寝スタイル。方々に洗面器 が置いてある理由は‥‥横揺れ減少装置は付いていますが何せ外洋だからねぇ。 食事は自動販売機のカップ麺か食堂での食事となるが、食事は出航後に予約に行 かないといけない。1000円くらいしたような‥‥。 お盆の時期なので混雑 が予想されたが、印象に残っていないことを考えると、おそらく十分空いていた のだろう。すぐ寝る。 


第1日 8/13 翌朝、早朝から、口之島・中之島・平島へと寄港していく 。船は港に近づくと汽笛を鳴らすのだが、それが合図になっているのか、港に軽 自動車が集まってくる。郵便・荷物の受け渡しやコンテナの上げ下ろし作業がメ インで、人の乗り降りはついでのようなものだ。いかに「としま丸」に島々の生 活がかかっているかが分かるシーンだ。
 船内電話を使って宿の予約をする。この時点での計画は宝島に3泊して、そ の間に小宝島へ行き、次の船で諏訪之瀬島へ向かうというものだったので、宿泊 の条件は3泊で小宝島へ舟が出せるということである。幸い「トカラ荘」が船を 持っていて部屋も空いているということなので、宿泊をお願いする。宝島での宿 泊はキャンプか簡易宿泊所(民宿)になる。旅館やホテルは(当然)無い。それ どころか島内に食堂すら無いので、宿泊は3食つきということになる。料金は4 〜5000円が相場。

 船は諏訪之瀬島・悪石島・小宝島と順調に寄港し、予定より早い正午に宝島 に着いた。

 島に着き、トカラ荘と描いてある軽バンに乗り込み宿へ。

 宝島は南側が山地になっていて、大した平地もなく海に落ち込んでいる。反 対の南側はなだらかな斜面となり、集落はこの斜面の中程にかたまって形成され ている。斜面を下ったところに前寵港がある。東の端には宝島港があり、波や風 などで前寵港に入港できないときのみ、こちら側に船が着く。

 集落には、診療所・郵便局・学校・高齢者コミュニティセンター(略してコ ミセン)・そして島唯一の売店(その名もファミリーマート)がある。 診療所 は月に1回(だったかな)、鹿児島から医師がやって来て診療をする。医師の常 駐は無いが島民の中で看護婦みたいな人はいるようだ。郵便局は未だオンライン 化されていなかったが、準備はしていたようなので、今頃はカードも使えるよう になっているだろう。コミセンは、四方から道が集まってくるようなつくりにな っている。おそらく昔からの集会場なのだろう。役場の出張所(船の切符売り場 )もジュースの自動販売機もある、島の中心部だ。ちなみに自動販売機があった のは、ここと港と港近くの砂利工場の3カ所のみだった。
 荷物を置いてさっそく島内一周へ。約10kmの簡易舗装の一周道路を反時計 回りに歩き出す。この道はおそらく島民の雇用のために作ったものだと思う。誰 も通らない。特に東半分は全く使っていないのではないかと思う。島の最高点で あるイマキラ岳を回り込むあたりで、島の東端にある荒木崎灯台への道が分かれ る。牧場の入り口にもなっているので柵があり、それを開けて入る。
 灯台のあたりは崖になっており、下をのぞき込むと尻が窄むくらいに高い。 来た道を振り返るとイマキラ岳と無線中継所のアンテナが見える。

 集落へ戻る。田は既に刈り取りが終わっている はじめは休耕田かと思った が、二期作も可能なこの島では8月には刈り取りが終わっているようだ。
 宿に戻って、体の火照りを冷ましてから、桜石と島の東北部へ行く。このあ たりは砂丘になっていて、アダンの林になっている。大池という池があるはずだ ったが、涸れていたのか、見つけることはできなかった。

 夕食時の食堂で港から宿まで送ってくれた2人に会う。てっきり宿の人かと 思っていたのだが、実は宿泊者だった。なんでもほぼ毎年、宝島に来ては一月く らいのーんびり過ごすのだそうだ。聞けば高校の先生だとか。先生達はトカラ荘 の別館で寝泊まりしているとのこと。ビールを飲んですぐ寝る。後から聞けば、 この夜が唯一のきれいな星空だったという(波乱のスタートなのだ)。

第2日(8/14)
 民宿のおやじの新造船で小宝島へ行く。一人10000円だ。我々4人と、おや じと親戚の小学生の女の子2名、計7名で出航。

 小宝島は宝島の北東15kmの海上に浮かぶ周囲3kmの小さな島である(ホンマ にこれくらいなら占領できそう)。人口は42名。一時は過疎が進んで、無人島に なりかけたという。昨年、児童文学「モモ」の感想文を書いた女の子がNHKで 取り上げられ、有名になった。 
 宝島を出発した舟は、ものすごいスピードで小宝島へ向かう。島から離れた とたん、急に波が大きくなり、飛沫がどんどんかかる。釣り船に毛の生えた程度 の小舟はかなり揺れた。 小宝島に着いたとき、女の子2人はかなりグロッキー になっていた。

 われわれが小宝島に着いてしばらくすると、昨日乗った「としま丸」がやっ て来た。我々を宝島で降ろしたあと名瀬まで行き、折り返し今朝、名瀬を出航し てやって来たのだ。実は我々の小舟とほぼ同時刻に宝島を出航している。
 なんで「としま丸」で来ずに宿の船に乗ったか、だって?
 ‥‥宝島へ戻る船がないからです。 

 さて、昨日は甲板の上から船がやってくるシーンを眺めていたわけだが、今 回は逆に桟橋の方から眺める。船からの合図で軽トラが集まってくるのは同じ。 軽トラの荷台には子どもが乗っていて船の到着を待つ。
 船が着いた。タラップが付けられると、子ども達が乗り込んでいく。お菓子 やジュースを買い込むためだ。小宝島には店がないので船の売店で買うしかない のだろう。
 「カコーン」「カコーン」コンクリートの桟橋に金属音が響く、飲んだジュ ースの空き缶を投げ捨てしている。大人も子どももだ。一般には考えられない光 景だが、ここでは、要らない物は放ったらかしにしておけば自然が浄化してしま うのだろう。もちろん良いことではないが、それができる環境であり、ゴミを集 めたところで、狭い島で捨てる場所がないのも事実なのだ。 一介の旅行者が口 を挟めようか。
 しばらく港で写真を撮っていた。他の者に遅れて島を歩き出す。しばらく行 くとこの島唯一の集落があり、道路端の木陰にゴザを敷いて3家族くらいが集ま っている。民宿のおやじと同行の河田夫妻もその中にいて軽食を振る舞われてい る。なんでも民宿のおやじと島の有力者(長老?)が親戚だそうだ。
 「やきもち」や「ふくれがし」という名の黒砂糖をつかったパンケーキのよ うなお菓子を振る舞われる。宿のおやじと女の子達とここで分かれ、我々4人は 島内一周へ。

 アダンの実は遠くから見るとパイナップルの実に似ている。近づいてみると 、トウモロコシの粒を親指くらいの大きさににしたものがくっついてできている 。一粒ちぎって食ってみたが‥‥まずい。

 小さな港の横に湯泊温泉がある。脱衣所もない、コンクリートで固めただけ の質素な露天風呂だが、気持ちがよい。 湯は熱いあつい。港に潜ったり風呂に 入ったり。

 さらに進むと、朽ちた自動車がいくつか放置されている。粗大ゴミもある。 おそらく島の生活で要らなくなった物はここに捨てられるのだろう。さすがに潮 風の影響で金属はよく錆びていて、自動車などぼろぼろだ。しかしプラスチック 類はどうするのだろう。

 さらに進む。発電所の近くに海水を淡水に変えるプラントがある。簡単に中 に入れるが良いのだろうか?

 小宝島港のちょうど反対位置に城之前の漁港があり、風化した岩石が集まっ た岩山群がある。 島の西側には珍しく畑があった。草取りをしていたおばさん に聞いたところ落花生だという。砂地で作れる作物は限られているのだなぁ。

 さて、島内一周も終え、宝島へ戻ることとなった。台風が近づいているとの こと。風が出始めた。おやじは、我々を送ったあと、船を安全な奄美大島へ移す と言っているから、これは大ごとなのだろう。 帰りの舟は、行きどころの騒ぎ ではなくて揺れる揺れる。しかも漂流物との戦いも始まった。おやじは巧みな繰 船で漂流物を避けて行くが、たまにゴツ!と当たる音も聞こえた。 舟と同じく らいの大きな流木が横1m位を通過していったのを見たときにはゾッとした。

第3日 8/15
 離島の宿命で新聞は来ない。来ても4・5日分どっと来るのであまりニュー ス性はない。郵便や雑誌も同じだ。では島の人は、本土と隔絶された生活を送っ ているかというと、そうでもない。TVというニュース源があるからだ。特に宝 島はNHKの無線中継所があるのでよく映る。確かこの日あたりでソビエト崩壊 のニュースが流れたはずだ。絶海の孤島というイメージのある宝島ででも大阪と 同時刻にニュースをキャッチできる。当たり前のこととはいえ、すごいなぁ、電 波のメディアって偉大だなって思う。

 午前中、島唯一の海水浴場へ行く。島の北にある前寵港と東にある宝島港を 結ぶ道路は立派なアスファルト道路だ。これをてくてく10分くらい歩くと海水 浴場だ。島の周囲は 珊瑚礁になっているので、無理して泳ぐと尖った硬い石灰 岩でざっくりだ。周りを海で囲まれた島だからといって、どこででも泳げるわけ ではないのだ。 宝島では入り江になっているところに砂を入れ、海水浴場を作 ったという。子ども達が安心して泳げるようにするためだそうだ。ほかにも南国 風の東屋を建てたり(日陰が心地よい!)、淡水の出るシャワー室を作ったり、 他に力を入れるところが無いせいもあるが、けっこう努力が認められる。 海水 浴場では、アベックと青年の計3名がテントを張ってキャンプをしていた。公共 の水道があるのはここと港ぐらいのものなのだろう。

 昼飯を食いに戻り、再び島内散歩に出かける。この島では平家の落人伝説が あり、独特の形状の墓がある。平田さんという名字も多い。 また立ち入ること はできなかったが沖縄文化のような聖地が要所要所にあるようだ。

 島内一周道路を通って、島の南の大間港へ。鍾乳洞のロケハンもする。 続 いて島の西にある大原牧場を通って大瀬崎まで行こうとしたが、雄牛が近寄って きて威嚇するので(しているように見えた)、怖くなって引き返す。

 夕食前、前寵港の西の岩場で夕景の写真を撮る。放牧されている小ヤギは鳴 きながら駆け寄ってくるのであった。

 隣の民宿は四国学院大(だったかな?)のゼミ一行の借り切り状態になって いるようだ。ゼミの中心は太った黒人の先生で、われわれはムバラク大統領に似 ているので、勝手にムバラクさんと呼んでいた。本当の名前は忘れた。ティナさ んは、その先生と研究分野が同じなのか、意気投合して、よく話をしに行ってい た。

 台風のため、としま丸の鹿児島出航が延期になったとのこと。宿にはとしま 丸が来るまで宿泊延長をお願いする。


第4日 8/16
 この日は洞窟探検へ。桜石は夏バテでダウン。大間の鍾乳洞へ入る。入り口 こそ広いものの10mも入れば、背をかがめたり身をよじらせたりしなくてはな らない。しかも真っ暗だ(当然だが)。光源は河田氏のデコライト1つ、ティナ さんの懐中電灯1つ、私のストロボ(笑)だけである。調査隊が何度も入ってい るところなので道しるべの布きれは所々にあるのだけれど、狭いのと、見えるの は懐中電灯の当たっているところだけなので、見逃す恐れも多い。 写真を撮る のも苦労する。今のカメラと違ってオートフォーカスでないため、ピントはヤマ カンだ。 鍾乳石は空気に触れると酸化して茶色になる。入り口付近は酸化が進 んでいたが、内部はまだ白い鍾乳石も多かった。

 2〜30mくらい進み、もうこれ以上体が入らんという状態になった。途中 、光が漏れているところがあり、小柄なティナさんが入り込んで、外へ出る。な んでも出た場所はすり鉢の底のような地形でうっそうと植物が生い茂っていたら しい。それってトカラハブの絶好の住処やなぁ。

 無事、鍾乳洞から脱出。私は心配性なので落盤とかありやせんかと冷や冷や していたので出てからほっとした。しかしまぁ石灰岩地形ではよほどのことがな ければ落盤なんて無いわな。民宿に戻って昼食。

 昼からは、民宿の車を借りてイマキラ岳の頂上へ。この車、かなり痛んでい て、離島のお約束・ナンバー無しは当然として、バンパー無し・サイドミラー無 し、床下には穴が開いていて運転しながら路盤の状況が確認できるという代物だ 。ドアの開け閉めにも工夫がいる。強く閉めたらドアが取れそうだし、弱かった ら閉まらない。開けるときは1度軽く引いてから開ける、等々。

 標高292mのイマキラ岳には、無線中継所・風力発電所・三角点・展望台 がある。風力発電所は、遊園地の施設か、近代美術のモニュメントかといった形 をしている。 展望台に登る。宝島の周囲が見渡せる。風が非常に強い。風力発 電設備があるくらいだから当たり前か?いや台風が接近して来ているのだろう。

 夕食後、海水浴場へ夕景を撮りに行く。東の空に月が見えた。周りの雲は早 い。風が強くなってきたのだろう。3人居たキャンパーはシャワー室内でテント を張っているようだ。

 帰り道、集落の方を見ると学校の体育館の電気がついている。リクレーショ ン活動の日なのだそうだ。4人でおじゃましてバドミントンをする。


第5日目 8/17 桜石が行きたい行きたいとうるさいので再び展望台へ。 台風接近が近いのか、海は荒れている。しかし、まだ天気はよい。 蝶が道路に 降りて羽を休めている。このあたりも独特の種の蝶がいるらしい。私は興味がな いので、何も知らないが、同じ職場で蝶の研究をしている人に「宝島へ行く」と 言ったらやたら羨ましがられたことを思い出す。

 大間港周辺で泳ぐ。きれいな珊瑚礁だ。持ってきたシュノーケルを交替で使 う。

 コミセンでとしま丸の乗船券が発売されるのだが、明日のとしま丸は来ない ことが貼り出されてあった。勤め人の河田氏はズンドコに陥る。さっそく職場に 連絡だ。私は‥‥まぁ、夏休みということで余裕をこいていた(まだ大丈夫)。

 夜、島の祭りが行われる。田の神祭りと聞いていたが、後で調べるとそれは 旧暦の8月16日ということで、たぶん我々が参加したのは、夏祭りだろう。コ ミセンの広場に大きなビニールシートが敷かれていて、みんな車座になって酒を 酌みあっている。若い郵便局長が島のまとめ役らしく、やたら酒を接いで回って いる。我々のところにも、やってきて、観光地の話や、嫁が来ない・若い者が出 ていってしまうなどの離島のしんどさなど語る。自分も鹿児島に出ていたが、こ の島に戻って島を盛り上げるとも言っていた。

 宴が始まって1時間少し経った頃、いきなり踊りが始まった。音楽のことは 解らんのだけど、祭り囃子と南方系のリズムを合わせたような感じだなぁと思っ た。今になって思うと沖縄のエイサーにも似ているような。 踊り&カラオケ(!) は12時まで続く。宝島に来てから早寝の習慣がついていたので、最後は眠た かった。


第6日 8/18
 としま丸は来ない、でも天気は快晴だ、台風が予想以上にゆっくり向かって 来ているらしい、午前中は脱力感で民宿でゴロゴロしていた。
 午後から先生達に教えてもらった秘密の海水浴場「プライベートビーチ」へ 行き、ゴロゴロする。ここで波と戯れる快感を知る(これが沖縄に続くわけやね )。
 浜でキャンプをしていた横浜の青年・梶田氏がトカラ荘に宿泊に来る。風が 強くて、もうキャンプができるような状態ではないようだ。


第7日 8/19
 台風が近づいてきたのか天気は曇り。当然「としま丸」は来ない。
 東の宝島港へ行き、荒波を撮る。打ち寄せた波が珊瑚礁に当たり、石灰岩の 隙間から数mの高さの水柱になって吹き出してくる。
 午後には雨が降りだし、どこにも行けない、何もする事がない。麻雀でもし ようかということになり、民宿のおばちゃんに借りに行くが、無いとのこと。し かし「松下さん(だったかな)の家にはあった」というおばちゃんの話を聞いて 、桜石は見ず知らずの人の家に麻雀パイを借りに行った。エライ! 桜石・河田 氏・梶田氏、そして私の4人で、別館へ行き、麻雀をする。以降、麻雀漬けにな る。(だってする事がないんだもん)


第8日 8/20
 雨も風もたいへん強い。当然「としま丸」は来ない。
 男4人は一日中麻雀をする。ティナさんはムバラク先生のゼミに混ざってお 勉強。
 宿泊費が1日5000円やから、180万あれば1年中ここで遊んで暮らせ るねんなぁなどと馬鹿な話をする。
 勤め先の学校へ、登校日に出勤できないことを伝える。みんなあきれている ようだった。


第9日 8/21
 ようやく台風が接近する。来ない来ない。「としま丸」は絶対に来ない。あ まりに退屈なので、替え唄を作って歌ったりした。何やってんでしょうねぇ。
 しかし、こう船が来ないと我々の宿泊費も日数に比例して上がって行くわけ で、実に恐ろしい。宿はボロ儲けかと思いきや、客が出ていかない換わりに来る はずだった客が来れなくなったわけでトントンだろう。
 船が来ないことで恐ろしいのは、物資が不足するのではないか、ということ だ。事実、ファミリーマートの缶ビールは底をつき始めた。宿の食料は大丈夫な のだろうか。ムバラク先生の宿は昼食がラーメン一杯だけだったと聞く。「うち は大丈夫だよ、お客さん困らせるようなことはしないよ。」おばちゃんは笑って 、我々の不安を一蹴した。

 TVを見ていると見事に宝島にめがけて台風が進んでくる。
 昼過ぎ、台風の目に入る。嘘のように雨・風がやみ、一部青空まで見える。 台風の目に入ったことを実感した。 この日もひたすら麻雀。昼頃、台風の目に 入った。急に風雨がやみ青空が広がる。その間にトカラ荘に戻り、昼飯を食って 、また別館へ戻り麻雀をする。そのうち、また風雨が強まってきた。教科書通り だ。


第10日 8/22
 ようやく台風が去った、といってもすぐに船が来るわけではない。
 台風は進路を北へ変えたため、今度は鹿児島が暴風圏に入ったのだ。これで は鹿児島にいる「としま丸」が出航できるわけがない。ということでまだまだ島 で足止めだ。
 この日の午前中、ちょっと台風の写真でも撮るべぇと出かけようとしたが、 まだまだ風雨が強い。前寵港で写真を数コマ撮っただけでずぶぬれになって帰る 。

 郵便局へ行き、貯金を引き出す。しかし予想外のことなので、金が足りない 。実家に電話して郵便為替で金を送ってもらい、事なきを得た。 昼も夜も麻雀 をする。他にすることはない。 こんな旅もまぁいいさ(自棄糞)。


第11日 8/23
 天気が回復した。ようやくとしま丸の出航が決まる。明日、宝島に来る。
 午前中、海水浴場へ行く。台風の影響か見事に潮が引いていた。天気は快晴 で風が強いため、たいへん心地よい。
 午後はプライベートビーチへ行ってゴロゴロ。
 先生達は宝島港へ行き、台風で打ち上げられた魚を拾ってきてくれた。変わ った魚が多かったが、その中でも特に変わっていたのは「ダツ」という魚だった 。非常に細長く頭の先に鋭い剣がある、刀のような形をした魚である。光るもの に突進する性質を持っているらしい。夜間のダンビングでライトを上向きにした ために、ダツに貫通されて死んだ人もいるとか。恐ろしい魚だ。身は明るい緑色 。食欲を十分に減退させてくれる色である。民宿のおばちゃんはテンプラにして くれたが‥美味くない。


第12日 8/24
 ようやく宝島脱出だ。帰るとなると急に離れたくなくなるものだが、ここで 滞在すると今度いつ帰れるか分からない。先生達はまだ居ると言うが、帰れるの だろうか。

 赤岩までドライブ。島の東海岸では、赤色の石灰岩の巨石がいくつも横たわ っているのだ。

松下さん(だったかな)に借りていた麻雀パイを、お礼のビールを持って返し に行く。

 トカラ荘のおばちゃんに会計を済ませてお別れを言う。

 13:30宝島出航。台風が去ったとはいえ、海上はまだ波が高い。かなり揺れ たらしい(私は寝ていたので知らんかったが)。帰りで揺れるのだから、宝島ま で来るときの揺れの大きさってどんなだったのだろう?

 翌朝、3時過ぎに鹿児島港到着。西鹿児島駅で始発の列車を待つ。予想外の 長期滞在でJRの切符の有効期限が切れてしまっていた。


さいごに 
 いかがでしたでしょうか?遠い南の離れ島の雰囲気が少しでも伝わりました でしょうか。

 宝島は、その名前から財宝伝説があったり、平家の落人伝説があったり、ロ マンあふれる島であります。 しかし一方で、現実に人が住み、離島のしんどさ を抱える素朴な島でもあります。 そんな宝島で、十日あまりの間、探検気分を 味わい、自然に触れ、人と語り、台風まで遭遇しました。ほんの一部分ではあっ ても離島生活を体験できたことは、貴重なことであったと、今思います。

        OH!WOO!!1994年10月号より


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